独我論は、存在論の下限である。
だが、独我論は、もっとも小さな(あるいは最低の)存在論なのであって、「私が在る」ことだけから開示される世界は空虚であり、そのうちには何も存在しない。
哲学的アポリアは、決して哲学的には解くことができない。
言いかえれば、哲学的な基礎づけを召還するそれらの難問は、ただ哲学的基礎付けの限界を提示するために存在する。
何故人を殺してはならないか、という問いに対して、人は哲学的に答えることはできない。
何か示すことができるとしたら、人が殺し殺され、また殺されず殺さなかった事どもと、その意味を誰かと共に確認しあうことだけだ。
「私は殺さない」は、ほとんど無意味な空言であるが、「私はあなたを殺さない」は実質を持つ。
約束であり、契約であり、いまや最低限の社会が(あるいは社会の下限が)我々の前に、私とあなたとを含み持ちながら出現する。
社会的な問い、社会的にしか解きようがない問いが、こうして始まる。
自己とは、世界の境界である。
独我論は間違っているのではない(我々はとりあえずはそこから始める以外にない)。だが、それはあまりに貧しすぎるのだ。
だが、独我論は、もっとも小さな(あるいは最低の)存在論なのであって、「私が在る」ことだけから開示される世界は空虚であり、そのうちには何も存在しない。
哲学的アポリアは、決して哲学的には解くことができない。
言いかえれば、哲学的な基礎づけを召還するそれらの難問は、ただ哲学的基礎付けの限界を提示するために存在する。
何故人を殺してはならないか、という問いに対して、人は哲学的に答えることはできない。
何か示すことができるとしたら、人が殺し殺され、また殺されず殺さなかった事どもと、その意味を誰かと共に確認しあうことだけだ。
「私は殺さない」は、ほとんど無意味な空言であるが、「私はあなたを殺さない」は実質を持つ。
約束であり、契約であり、いまや最低限の社会が(あるいは社会の下限が)我々の前に、私とあなたとを含み持ちながら出現する。
社会的な問い、社会的にしか解きようがない問いが、こうして始まる。
自己とは、世界の境界である。
独我論は間違っているのではない(我々はとりあえずはそこから始める以外にない)。だが、それはあまりに貧しすぎるのだ。